はじめに


「英雄−イラクリオス−」を既に見ていただいた方、これから見てくださる方に対し、このFlashが史実に対して心許ない部分がありその辺を注意していただきたくこのページを作成いたしました。

で、史実の解説ですが・・・

『ビザンツ帝国史』 尚樹啓太郎 東海大学出版会 を読んでください、以上。




ごめんなさい、真面目にやります。

「イラクリオス」は最終的に「ヤルムークの戦い」をFlashにしたいという私の目標から始まっております。
しかしヤルムークには知ってる人には当たり前とはいえ初めて触れる人には長〜い解説が必要であるように思えました。
そこで前奏で延々解説を行うよりヤルムークに至るまでにも面白い展開があるのだからそれぞれFlash化してみて結果としてヤルムークにたどり着けないかと考えたのです。
(それ以前に「ヤルムーク」関連の画像が乏しいという理由もありますが。)


そんなわけで「イスラム爆誕」「英雄−イラクリオス−」とつくってみましたが、有名な事跡をコンパクトにまとめた「イスラム爆誕」に対し「イラクリオス」は題材としてややマイナー気味。
またおもしろさ、リズム、分かりやすさを優先させ(というか私の理解が余り深くないため)、未確定な部分を断定したり史実の時系列を変えたり経緯を省略したり・・・気になる部分が色々あります。
さらに私自身が気付いていない(分からない)間違いもあることでしょう。

僅かなりとも作品のフォローをしたいと考え、この解説ページを作ってみました。
本来なら歴史の流れにそって国際情勢をふまえ、ペルシア遠征の詳細な解説を行うのが正統なのでしょうが、それだけで膨大なテキストが必要となり立派なコンテンツが出来上がります。
とても私の手に負えません。
申し訳ないのですがこのページでは私の気になる部分だけを箇条書きで取り上げ、もっと詳しくイラクリオスを知りたいという方は下記の本をご紹介することで代えさせていただきます。

 <全体流れが分かる本>
 ・『生き残った帝国ビザンティン』 井上浩一 講談社現代新書 
 ・中央公論社『世界の歴史11 ビザンツとスラブ』

 <もちょっと詳しい本> 
 ・『ビザンツ帝国史』 尚樹啓太郎 東海大学出版会 
 ・『ローマ帝国衰亡史 7』ちくま学芸文庫



それでは次より解説を始めさせていただきます。
「他にも問題点がある」という指摘がありましたら、「楽しむスレ」やメールで教えてくださると大変ありがたいです。


○ササン朝によるカルケドンの占領について
Flashを見ると首都コンスタンティノープルの対岸にある重要拠点カルケドンは、602年のフォカスの簒奪に始まったホスロー2世の侵攻によりたちまち陥落し、その後ずっとササン朝軍が居座ったように見えます。
しかしこのときのササン朝の侵攻は小アジアの大部分に及んだが、カルケドンには至っていないかも知れません。(はっきりしたことはわかりません。)
とは言えフォカスの在位時代、東ローマはカパドキアやシリアでササン朝に連敗し小アジアでは反乱が相次ぎ「敵の脅威が目前に迫った状態」であったことは間違いないと思います。

イラクリオスの即位後612年までに東ローマはかなり西方のカパドキアまで奪い返したようです。
その後間もなくササン朝の反攻で小アジアは再び侵され、615年には確実にカルケドンはササン朝に奪われます。
この時から626年のササン朝軍退却まで、帝都コンスタンティノープルの対岸に強力な敵国の軍勢が居座り圧迫を受け続ける事態が続きます。
つまりイラクリオス即位後の攻勢は西方に限らず小アジアでも展開されていたのです。




○イラクリオスの軍隊再編

これについてはイラクリオスは準備万端整えて首都を進発したわけではないということです。
首都で新たに徴集した軍隊を率いて(尚樹啓太郎氏はこのときの部隊をギリシア人からなる「国民軍」と記述しています)目前の強力なササン朝軍(カルケドンの部隊)を避けキリキアに上陸、カパドキアに入ります。
そこで周辺の非ギリシア人キリスト教徒達を編入し軍を拡大します。
そしてカパドキアに冬営地を築きそこでみっちり訓練を施します。
自軍を2つに分けて本格的な模擬戦争。

つまり軍隊の本格的な再編はカパドキアについてから行われました。



○アヴァールの参戦
これも経緯を全く省略しました。
まずアヴァール人は626年の突然侵攻してきた訳ではなく623年早々と同盟を破棄し、帝都を襲撃します。
この時はカパドキアにいたイラクリオスが慌てて帰還し、それに対しアヴァールも早々に囲みを解き貢物の増額で同盟を結び直します。
その同盟は626年のコンスタンティノープル攻撃でまた簡単に破られますが、東ローマにとってアヴァールはいつ攻めてくる分からない存在であり、全く不意をつかれたというわけではありません。
ただササン朝と共同で軍事行動を起こしたことは非常に危険な事態であったと思われます。
 

○626年のコンスタンティノープル襲撃
イラクリオスの遠征開始時、ササン朝軍は相当動きが鈍いように思えます。
イラクリオスのササン朝本土侵攻は撃退しますが、みすみすカパドキアに拠点を作ることを許しています。
602年に対東ローマ戦争を開始して以来の間断なく続く戦闘、帰還なき遠征により兵の消耗が非常に激しかったとギボンは『衰亡史』で記述しており、そのことが影響しているのではないかと思います。

そこでホスロー2世は新たに大動員をかけ大量の兵士を徴集します。
その新軍団をを3軍に分け、カパドキア攻撃、カルケドン軍の増強、シリアの防衛強化を行います。
さらにアバール人と同盟を結んで帝都包囲を行う訳ですが、アヴァール人の参戦自体はササン朝が上記の大攻勢にでた後です。(同盟の交渉は早くからしていたのでしょうが)
増強されたカルケドンのササン朝軍がコンスタンティノープルた対峙している最中に、アヴァールが到着し城壁に迫る猛烈な攻防戦が10日間続いたとあります。
Flashではその辺の時系列がゆがんでいます。


○コンスタンティノープル包囲の解放
この辺がFlashの山場ではあるのですが実は私の持ってる資料でははっきりした記述に乏しい。
断片的な記述から「恐らくこんな流れだったのだろう」という感じで書いています。
というか謎が多いんですよ。
・当初みすみす帝都包囲を許してしまうなんていったい何やってんの東ローマ艦隊。
・アヴァール陸軍を打ち破ったのはイラクリオスが「かねて用意していた重騎兵1万2千」(ギボン『衰亡史』)だったのですが、どこに用意してあってどうやって移動したのか分からない(ひょっとしたら「セオファニス年代記」には書いてあるのかもしれない)
・アヴァール軍の敗北を何故か黙って見過ごしたカルケドンのササン朝軍。

この不思議な状況下で、東ローマの勝利という結果を説明できるのはあの流れしかないのではと思っているのですが・・・
恥ずかしながら、あの部分史実だと思わないで下さると気が楽です。


○ハザールの参戦

これはFlashではイラクリオスの工作の結果のように描きましたが、実際は分かりません。(文献によって表現が違う)
東ローマ有利と見てササン朝に侵攻したハザールに後から同盟を持ちかけたのかも知れません。

結果だけ書くなら、
 ・東ローマとハザールは同盟を結び
 ・ハザールの汗の元へイラクリオスの娘エウドキアが嫁ぎ
 ・イラクリオスはハザール軍4万の援軍を得た
ということです。


○真なる十字架
キリストが架けられたという「真なる十字架」
この聖遺物を取り戻すこともイラクリオスの遠征の重要な目的でした。
しかし、628年の和平成立時には真なる十字架は「どこへいったか分からない」(ペルシア側回答)という状態であり、イラクリオスがとうに帝都に帰還した630年にようやく「見つかった」ということで東ローマに返還されました。
イラクリオスはわざわざエルサレムに出向き、盛大な式典を行い聖遺物の帰還を祝っております。


○おまけ・・・間違いというかFlashに描ききれなかったけど非常に惜しいネタ

ハザールの参戦後、イラクリオスの弟セオドロス(この人を覚えておいてくれると最終回のヤムルークがより面白いかと)によりササン朝の黄金槍軍団は壊滅され、さらにシリアを防衛していたもう一つ軍団も大敗北します。
これによりカルケドンを防衛していたササン朝軍は孤立します。

そこで東ローマ側は謀略を仕掛けます。
何らかの方法で、カルケドン軍の司令官シャールバラヅにホスロー2世からと見せかけた偽手紙を届けます。

それはコンスタンティノープル攻撃失敗や黄金槍軍団壊滅の責任はシャールバラヅにあるとして、彼を処刑するようにというカルケドン軍の副司令官にあてた命令書でした。
(おおっ、「偽書の計」だ)

シャールバラヅはまんまと騙されたのかそれとも百も承知でそれに乗ったのか、この偽手紙を帰下の将達に見せホスロー2世の非道を訴えます。
部下たちは「最早ホスロー2世は王に相応しくない」として、シャールバラヅに味方することを約束します。

軍を掌握したシャールバラヅは東ローマと単独講和を結びシリアに退去。
以降、この強大な軍団はシャールバラヅのもとホスロー2世の命令を受けず、独自の行動をとります。


○東ローマ帝国とローマ市の関係(ローマファンさんのご指摘によります)

ローマ教皇領の成立以前の東ローマ帝国について、ローマ市を領有していないと述べるのはあまり適当ではないように思います。
オドアケルのクーデターによるロムルス帝の廃位によってローマ帝国がローマ市の領有権を失ったのは事実ですが、まもなく東ゴート王国を滅してローマ市の領有権は奪回されている訳で、基本的にはラヴェンナやローマはローマ帝国の領土であると捉える方が自然ではないかなと思います。
これは、あくまで私個人の考えですが。

へりくつみたいな話になってくるのですが、軍人皇帝時代の後期以降のローマ帝国では、西方世界の中心はもはやローマ市ではなく、メディオラム(ミラノ)やラヴェンナが帝国の実上の首都で、皇帝もローマに訪れることはほとんどないような状態でした。帝国の東西分裂や西帝国の滅亡によってローマ市が帝国の中心でなくなったわけではないと思います。
「ローマなのにローマじゃない」という状況は、遅くともディオクレティアヌス帝の時代には、完成してしまっているのではないかと。
細々と述べることでもないとは思うので、私の言っていることの方が、揚げ足取りかもしれませんね(汗)。

これは余談ですが、コンスタンティノポリスも、4世紀末にテオドシウス1世が根拠地とするまでは東方世界の中心的地位ではなく、どちらかと言えばアンティオキアが対ペルシア戦の前線としてより重要な都市だったようです。




参考文献(7世紀ビザンツ関連書籍)

・中央公論社「世界の歴史11 ビザンツとスラブ」
・創元社「図説世界の歴史4 ビザンツ帝国とイスラーム文明」
・ちくま学芸文庫「ローマ帝国衰亡史 7・8」
・東海大学出版会 尚樹啓太郎著「ビザンツ帝国史」
・講談社現代新書 井上浩一「生き残った帝国ビザンティン」
・知の再発見シリーズ「黄金のビザンティン帝国―文明の十字路の1100年」
・オスプレイ「Yarmuk Ad 636」


Back
TOP